内務卿大久保利通は、士族授産、殖産興業の一環として、開墾するのに適した場所を求めて、東北地方を調査しました。
風土や気候、地形、村落の状況、水利など調べた上で、青森県の三本木原と福島県の大槻原及び諸原野が開墾に適しているという結論を出しました。
ファン・ドールンの指導により、疏水工事に関わる調査が行われました。
安積開墾と猪苗代湖からの疏水の開鑿は、内務省直轄で行われることとなりました。
安積開墾の予算規模は、国家予算の1%強の65万円です。
開墾は当初4000町歩の諸原野を2000戸の士族を移住させて開墾しようとするものでした。
しかし、大久保が暗殺され計画は縮小しました。
明治15年(1882)8月、安積疏水が完成しました。
のべ85万人の労働力をつぎこみ、40万7千円を投じ、幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所という規模を誇り、受益面積は3000町歩に及びます。
久留米藩141戸・土佐藩106戸・鳥取藩70戸・二本松藩24戸・会津藩36戸・棚倉藩74戸・松山藩15戸・米沢藩11戸・岡山藩4戸他、498戸が移住しました。
しかし、開墾の実情は厳しいものでした。中條政恒の孫百合子が、その現実を小説に書き記しています。
- 中條(宮本)百合子『貧しき人々の群れ』より -
私共の先代は、このK村(桑野村)の開拓者であった。
首都から百里以上も隔り、山々に取り囲まれた小村は、同じ福島県に属している村落の中でも貧しい部に入っている。
明治初年に、私共の祖父が自分の半生を捧げて、開墾したこの新開地は、諸国からの移住民で、一村を作られたのである。
南の者も、北の者も新しく開けた土地という名に誘惑されて、幸福を夢想しながら、故国を去って集って来た。けれども、ここでも哀れな彼等は、思うような成功が出来ないばかりか、前よりも、ひどい苦労をしなければならなくなっても、そのときはもう年を取り、よそに移る勇気も失せて仕方なし町の小作の一生を終るのである。
それ故彼等は昔も今も相変らず貧しい。
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