小栗忠順(おぐり ただまさ) |
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上野介。日米修好通商条約批准書交換のため渡米。
横須賀造船所建設はじめ軍事、財政に手腕を発揮、日本の近代化を推進しました。 |
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木村芥舟(きむら かいしゅう) |
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摂津守。咸臨丸の提督(勝海舟の上官)として太平洋を往復しました。
幕府海軍の建設を進めた人です。 |
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栗本鋤雲(くりもと じょうん) |
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横須賀造船所建設の現場責任者。
維新後はジャーナリストとして活躍しました。 |
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吉田松陰(よしだ しょういん) |
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志士、思想家。江戸へ出て、安積艮斎次いで佐久間象山に師事しました。
松下村塾を開き、門人は伊藤博文、井上馨はじめ多士済々。 |
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高杉晋作(たかすぎ しんさく) |
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松下村塾で学び、のち江戸へ出て艮斎塾に入りました。
奇兵隊創設。
長州藩を倒幕へと転換させました。
第二次長州征伐では全藩兵を指揮、幕軍に連勝しました。 |
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岩崎弥太郎(いわさき やたろう) |
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実業家。
三菱グループの創始者。
海運業を興し巨大政商として勇躍しました。 |
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前島密(まえじま ひそか) |
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越後高田出身。日本近代郵便の父。
海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険等、広範に功績を残しました。
安積塾で岩崎弥太郎と出会っています。 |
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中村正直(なかむら まさなお) |
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号を敬宇(けいう)。
昌平坂学問所教授。
スマイルズ『セルフ-ヘルプ』、J.S.ミル『自由論を翻訳出版しました。 |
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斎藤竹堂(さいとう ちくどう) |
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江戸で私塾を開きました。
アヘン戦争の論評や西洋史書『蕃史』を著しています。
38歳で病没しました。 |
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重野安繹(しげの やすつぐ) |
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清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、東大教授。
『大日本編年史』編集を主宰しました。
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三島中洲(みしま ちゅうしゅう) |
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漢学者、東大教授。二松学舎大学を創立しました。
中町夢通り、表参道入口に立つ安積国造神社の社号標は三島の書。
石井研堂『安積艮斎詳伝』に「幕末儒宗」の揮毫を寄せました。 |
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岡鹿門(おか ろくもん) |
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漢学者。松本奎堂、松林飯山と大坂に双松岡塾を開塾、尊攘論を説きました。
仙台藩藩校養賢堂教授となりましたが、戊辰戦争の際尊王論を唱えて奥羽越列藩同盟結成に反対、投獄されました。
維新後、東京に私塾を開きました。
門人に石井研堂、尾崎紅葉があります。
東京府学教授など歴任。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻(びょうこぶんこうはちずおうかん』を筠軒とともに制作しました。
また、安藤脩重(もろしげ)翁碑(御神楽殿)を撰文しました。 |
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松本奎堂(まつもと けいどう) |
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尊攘派志士。双松岡塾を開く。
天誅組(てんちゅうぐみ)の中心人物。
代官所を襲撃したが、八月十八日の政変以後、諸藩兵の攻撃を受け自刃しました。 |
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松林飯山(まつばやし はんざん) |
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勤王の志士。
双松岡塾を開きました。
大村藩五教館教授。大村藩を尊王倒幕へと導きました。 |
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大須賀筠軒(おおすが いんけん) |
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漢詩人。
平藩校養賢堂教授、旧制第二高等学校(仙台)教授。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻』の画と詩を作りました。 |
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秋月悌次郎(あきづき ていじろう) |
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号韋軒。
政治家・漢学者。
会津藩主松平容保の側近を務めました。
東大教授。 |
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南摩綱紀(なんま つなのり) |
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会津藩士。
藩命によって西国及び九州の諸藩を歴遊して各地の風俗、藩政の概要などを見聞、『負笈管見』を著しました。
東大教授。 |
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間崎哲馬(まざき てつま) |
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号を滄浪と言い、艮斎塾の塾頭を務めました。
土佐勤王党の中核です。
勤王運動を行う藩政改革を計画したが失敗、自刃を命ぜられました。 |
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清河八郎(きよかわ はちろう) |
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尊皇攘夷の志士。
各地の志士と交わり、島津久光上洛時、挙兵を画策しました。
藤沢周平『回天の門』に清河の生涯が描かれています。 |
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菊池三渓(きくち さんけい) |
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漢学者。
『国史略二編』『国史略三編』、漢文小説の『本朝虞初新誌』を著しました。 |
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岡本黄石(おかもと こうせき) |
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彦根藩家老。
詩名高く、維新後は東京で麹坊吟社を開き、後進を指導しました。 |
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鷲津毅堂(わしづ きどう) |
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名は宣光。
漢学者。
尾張藩藩校明倫堂教授。
維新後、宣教判官となりました。 |
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阪谷朗盧(さかたに ろうろ) |
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漢学者。
郷校興譲館教授。
廃藩後、明治政府に出仕しました。
明六社社員。
名文家として知られました。
子息に蔵相阪谷芳郎(よしろう)があります。 |
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神田孝平(かんだ たかひら) |
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幕府の蕃書調所に出仕。
維新後政府に招かれ、地方官会議議長として地租改正に寄与、のち貴族院議員となりました。 |
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福地源一郎(ふくち げんいちろう) |
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号を桜痴。
ジャーナリスト。
『江湖新聞』を発刊、佐幕の論陣をはり発行禁止となりました。
『東京日日新聞』主筆、『幕末の政治家』を著しました。 |
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谷干城(たに たてき) |
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熊本鎮台司令長官として西南戦争に遭遇、熊本城を堅守しました。
後、農商務相を務めました。
日露開戦には批判的な立場をとりました。 |
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宍戸璣(ししど たまき) |
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政治家。
司法大輔、教部大輔兼文部大輔など歴任しました。
艮斎の門にいた時、漢詩「示諸生」作詩に関わる逸話を残しました。
後年、石井研堂の『安積艮斎詳伝』に跋を寄せています。
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楫取素彦(かとり もとひこ) |
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政府高官。
松陰が密航に失敗して罪人となった時、楫取と宍戸は刑の減免の運動を艮斎に懇願、艮斎は老中阿部正弘に減免を願い出ました。。 |
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宇田川興斎(うだがわ こうさい) |
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蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)手伝となり箕作阮甫(みつくりげんぼ)らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。
初の英語学書『英吉利(いぎりす)文典』を著しました。
興斎『漂客記聞』に艮斎の序があります。 |
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箕作麟祥(みつくり りんしょう) |
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明治の啓蒙思想家。
外国奉行翻訳方。
フランスに留学しました。
ナポレオン法典を全訳した『仏蘭西法律書』は、民法編纂に影響を与えました。 |
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