安積国造神社
  宮司 安藤智重

〒963-8005
 福島県郡山市
 清水台1-6-23
 TEL:024-932-1145


 
 
湯島聖堂
もとの昌平坂学問所
 
 

艮斎先生の生涯

 安積艮斎(あさかごんさい)先生は、寛政3年(1791)安積国造神社第55代宮司安藤親重の三男に生まれました。
名は重信、また信、字は思順(しじゅん)、通称祐助、号を艮斎と言いました。
17歳にして学問の道に志し江戸へ出奔しました。
千住で僧日明(にちみょう)に出会い、寺に逗留、その紹介で、高名な儒学者佐藤一斎(いっさい)の門に入りました。
一斎は指導者の必読書として読み継がれている『言志四録』の著者、その門人は安積艮斎、佐久間象山、横井小楠はじめ3000人です。
艮斎は一斎の門で刻苦勉励して頭角を現し、次いで大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい)の門人となりました。
述斎は幕政顧問として文教政策を取り仕切る大物。
述斎は、艮斎を「思順は志強く気鋭なり。後必ず成るあらん。」と期待しました。艮斎は、述斎の弟子として30年礼節を尽し、その子培斎(ていう)、復斎とも生涯を貫く親交を持ちました。

艮斎は24歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、門弟の教育と学業研鑽に励みました。41歳の時『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになりました。
艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、筆力はつらつたる40代に5度旅し紀行文を書きました。
伊豆半島巡りの『遊豆紀勝(ゆうとうきしょう)』が大窪詩仏(しぶつ)に激賞されるなど、その詩文は高い評価を受けました。
艮斎の漢詩は『摂東七家詩鈔(せっとうしちけししょう)』などの漢詩選集にも載ります。
門人重野安繹(やすつぐ)は、当時の文壇について、東に安積艮斎、西に斎藤拙堂(せつどう)を最高位とすべき状況であったと述べました。

艮斎の思想は朱子学を主としましたが、師の一斎同様、陽明学の思考を積極的に取り入れ、学派に拘らない自由な学風を貫きました。
洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りしました。
嘉永元年(1848)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の要を説いています。

天保7年(1836)二本松藩儒となり、天保14年(1843)藩校教授として二本松へ赴任しました。
在任中『明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)』全80巻を校訂、一年半で江戸へ戻りました。
嘉永3年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、嘉永5年(1852)に徳川家慶将軍に進講、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、アメリカからの国書の翻訳を行いました。
開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出しました。
同年プチャーチン持参のロシア国書の返書起草にも携わっています。
門人は2280余名に上ります。晩年は学問所内の官舎にいて、没する7日前まで講義を行い、陶淵明集をこの世の見納めとしました。
万延元年(1860)70歳で没しました。師の一斎とともに、アカデミズムの頂点に立つ学者として知られた人でした。

艮斎先生の門人
 
小栗忠順(おぐり ただまさ)
  上野介。日米修好通商条約批准書交換のため渡米。
横須賀造船所建設はじめ軍事、財政に手腕を発揮、日本の近代化を推進しました。
   
   
木村芥舟(きむら かいしゅう)
  摂津守。咸臨丸の提督(勝海舟の上官)として太平洋を往復しました。
幕府海軍の建設を進めた人です。
   
   
栗本鋤雲(くりもと じょうん)
  横須賀造船所建設の現場責任者。
維新後はジャーナリストとして活躍しました。
   
   
吉田松陰(よしだ しょういん)
  志士、思想家。江戸へ出て、安積艮斎次いで佐久間象山に師事しました。
松下村塾を開き、門人は伊藤博文、井上馨はじめ多士済々。
   
   

高杉晋作(たかすぎ しんさく)

  松下村塾で学び、のち江戸へ出て艮斎塾に入りました。
奇兵隊創設。
長州藩を倒幕へと転換させました。
第二次長州征伐では全藩兵を指揮、幕軍に連勝しました。
   
   

岩崎弥太郎(いわさき やたろう)

  実業家。
三菱グループの創始者。
海運業を興し巨大政商として勇躍しました。
   
   

前島密(まえじま ひそか)

  越後高田出身。日本近代郵便の父。
海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険等、広範に功績を残しました。
安積塾で岩崎弥太郎と出会っています。
   
   

中村正直(なかむら まさなお)

  号を敬宇(けいう)。
昌平坂学問所教授。
スマイルズ『セルフ-ヘルプ』、J.S.ミル『自由論を翻訳出版しました。
   
   

斎藤竹堂(さいとう ちくどう)

  江戸で私塾を開きました。
アヘン戦争の論評や西洋史書『蕃史』を著しています。
38歳で病没しました。
   
   

重野安繹(しげの やすつぐ)

 

清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、東大教授。
『大日本編年史』編集を主宰しました。

   
   

三島中洲(みしま ちゅうしゅう)

 

漢学者、東大教授。二松学舎大学を創立しました。
中町夢通り、表参道入口に立つ安積国造神社の社号標は三島の書。
石井研堂『安積艮斎詳伝』に「幕末儒宗」の揮毫を寄せました。

   
   

岡鹿門(おか ろくもん)

  漢学者。松本奎堂、松林飯山と大坂に双松岡塾を開塾、尊攘論を説きました。
仙台藩藩校養賢堂教授となりましたが、戊辰戦争の際尊王論を唱えて奥羽越列藩同盟結成に反対、投獄されました。
維新後、東京に私塾を開きました。
門人に石井研堂、尾崎紅葉があります。
東京府学教授など歴任。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻(びょうこぶんこうはちずおうかん』を筠軒とともに制作しました。
また、安藤脩重(もろしげ)翁碑(御神楽殿)を撰文しました。
   
   

松本奎堂(まつもと けいどう)

  尊攘派志士。双松岡塾を開く。
天誅組(てんちゅうぐみ)の中心人物。
代官所を襲撃したが、八月十八日の政変以後、諸藩兵の攻撃を受け自刃しました。
   
   

松林飯山(まつばやし はんざん)

  勤王の志士。
双松岡塾を開きました。
大村藩五教館教授。大村藩を尊王倒幕へと導きました。
   
   

大須賀筠軒(おおすが いんけん)

  漢詩人。
平藩校養賢堂教授、旧制第二高等学校(仙台)教授。
安積国造神社社宝『苗湖分溝八図横巻』の画と詩を作りました。
   
   

秋月悌次郎(あきづき ていじろう)

  号韋軒。
政治家・漢学者。
会津藩主松平容保の側近を務めました。
東大教授。
   
   

南摩綱紀(なんま つなのり)

  会津藩士。
藩命によって西国及び九州の諸藩を歴遊して各地の風俗、藩政の概要などを見聞、『負笈管見』を著しました。
東大教授。
   
   

間崎哲馬(まざき てつま)

  号を滄浪と言い、艮斎塾の塾頭を務めました。
土佐勤王党の中核です。
勤王運動を行う藩政改革を計画したが失敗、自刃を命ぜられました。
   
   

清河八郎(きよかわ はちろう)

  尊皇攘夷の志士。
各地の志士と交わり、島津久光上洛時、挙兵を画策しました。
藤沢周平『回天の門』に清河の生涯が描かれています。
   
   

菊池三渓(きくち さんけい)

  漢学者。
『国史略二編』『国史略三編』、漢文小説の『本朝虞初新誌』を著しました。
   
   

岡本黄石(おかもと こうせき)

  彦根藩家老。
詩名高く、維新後は東京で麹坊吟社を開き、後進を指導しました。
   
   

鷲津毅堂(わしづ きどう)

  名は宣光。
漢学者。
尾張藩藩校明倫堂教授。
維新後、宣教判官となりました。
   
   

阪谷朗盧(さかたに ろうろ)

  漢学者。
郷校興譲館教授。
廃藩後、明治政府に出仕しました。
明六社社員。
名文家として知られました。
子息に蔵相阪谷芳郎(よしろう)があります。
   
   

神田孝平(かんだ たかひら)

  幕府の蕃書調所に出仕。
維新後政府に招かれ、地方官会議議長として地租改正に寄与、のち貴族院議員となりました。
   
   

福地源一郎(ふくち げんいちろう)

  号を桜痴。
ジャーナリスト。
『江湖新聞』を発刊、佐幕の論陣をはり発行禁止となりました。
『東京日日新聞』主筆、『幕末の政治家』を著しました。
   
   

谷干城(たに たてき)

  熊本鎮台司令長官として西南戦争に遭遇、熊本城を堅守しました。
後、農商務相を務めました。
日露開戦には批判的な立場をとりました。
   
   

宍戸璣(ししど たまき)

  政治家。
司法大輔、教部大輔兼文部大輔など歴任しました。
艮斎の門にいた時、漢詩「示諸生」作詩に関わる逸話を残しました。
後年、石井研堂の『安積艮斎詳伝』に跋を寄せています。
   
   

楫取素彦(かとり もとひこ)

  政府高官。
松陰が密航に失敗して罪人となった時、楫取と宍戸は刑の減免の運動を艮斎に懇願、艮斎は老中阿部正弘に減免を願い出ました。。
   
   

宇田川興斎(うだがわ こうさい)

  蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)手伝となり箕作阮甫(みつくりげんぼ)らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。
初の英語学書『英吉利(いぎりす)文典』を著しました。
興斎『漂客記聞』に艮斎の序があります。
   
   

箕作麟祥(みつくり りんしょう)

  明治の啓蒙思想家。
外国奉行翻訳方。
フランスに留学しました。
ナポレオン法典を全訳した『仏蘭西法律書』は、民法編纂に影響を与えました。
   
 
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